第56回 認知症介護 幻聴「ババアはおるか」

 母は目や耳のいい人でした。

 グループホームに入る以前、80歳近くなった頃でも、眼鏡をかけずに新聞を読んでいました。

 眼鏡は持ってはいましたが。

 耳が遠いということを感じたこともほとんどありませんでした。

 認知機能の低下で、話の内容が分からないとか、関心が向かないから聞こうとしていないとか、そういうことはありましたが。

 そんな母が認知症になって悩まされていたのが、幻聴でした。

 「第38回 認知症介護 独り言が増えてきた その1」でも触れましたが、男の人が話しかけてきたりののしったりするのが聞こえるようで、それに答えたり、その声を追い払おうとしているような独り言が増えていました。

 なかでも多かったのが「ババアはおるか」です。

 知らない男に追いかけられている恐怖を味わっているかのようでした。

 知らない男かどうかもはっきりしません。

 もしかするとお世話になっていたデイサービスの所長さんかもしれません。

 もちろん所長さんが「ババアはおるか」とは言いません。

 その頃は母の調子が悪くなってきており、デイサービスに行く回数を増やしていました。

 それが母にとっては負担になっていたかもしれないのです。

 だから所長さんが迎えに来てくれるのと、知らない男が「ババアはおるか」と迫ってくるのが重なって感じられたのかもしれません。

 カーテンを閉めたまま、こっそりと窓の外をのぞいていることも何度かありましたから。

 2015年1月のメモです。

2015年1月○日
・昨晩、おばあちゃんいわく、「トイレに入っていたらね。外で『ババアはおるか』という男の人の声がした」と。

 それで外を見てきてほしいというので、玄関を開けて「誰もいなかったよ」と言っておいた。

 「所長だ」と言ったとも言っていたので、デイサービス「○○○○」の所長さんが迎えに来てくれていた記憶がよみがえってきているのだろう。

 それほどプレッシャーだったのかもしれない。

 おそらくしょっちゅう幻聴が聞こえているのだろうと思う。

 2018年5月23日の朝日新聞に「『徘徊』使いません 大府市でも」という記事がありました。

 愛知県大府市が、行政文書や広報で「徘徊」を「一人歩き」や「一人歩き中に道に迷う」というように言い換えることを決めた、という記事です。

 認知症の人が危険な存在という認知症への誤解、それを防ぐことにつながるといいですね。

 すでに兵庫県や東京都国立市、福岡県大牟田市なども「徘徊」の使用を取りやめているのだそうです。

第55回 認知症介護 「年より笑うな行く道だもの」

 母がグループホームに入ることになったのが2015年8月。

 その事件が起きたのはその半年ほど前のことでした。

 母の認知症の症状としては色々なものがありましたが、排便を失敗することはあまりありませんでした。

 とはいえ、ベッドの横に濡れたバスタオルがあることが時々ありました。

 どうやら漏らしたおしっこをふいたようです。

 漏らすのが気になるのか、こまめにトイレに行っていた印象でした。

 しかし、ティッシュを尿漏れパッドのようにパンツにセットしては、それをトイレに流しているようだったので、トイレがつまってもいけないと思い、その頃は紙パンツをはいてもらうことにしていました。

 その方が母本人も少し安心かもしれないと考えたからです。

 実際はどうだったか分かりません。

 不快感があったかもしれません。

 その日、私が風呂を洗いに風呂場に行くと、なんと、うんこがありました。

 しかも、たっぷりと。

 お風呂とトイレの判断がつかなかったのでしょう。

 私は苦笑しました。

 以前父が高熱を出したとき、机の上にあったタオルを服を着るような動作で着ようとしていたのを思い出しました。

 タオルと服の区別がついていないようでした。

 父は認知症ではありませんでしたが、高熱のために一時的に認知機能が落ちたのだと思います。

 また、私が大学生の頃、泥酔した友人が階段の踊り場でおしっこしたのも思い出しました。

 酔いのために一時的に判断力が落ちたのだと思います。

 「子供叱るな来た道だもの 年寄り笑うな行く道だもの」。

 永六輔さんの『無名人 名語録』に収録されている言葉だそうです。

 父と母の晩年を見てきて、私もこの言葉をかみしめています。

 2015年1月のメモです。

2015年1月○日
・昨晩、おばあちゃんがお風呂でうんこをした。

 下痢便が少し漏れたというレベルではない。

 洗い場の方の排水溝の網のところに、かなりの量のうんこがあった。

 洗い場でして、あそこに隠したのだろうか。

 割り箸でつまめるような固形のうんちだった。

 一郎が手袋をして割り箸でつまんでトイレに流せる掃除用の紙に包んで、トイレに流した。

 うんこのついた髪の毛や、割り箸はやはり紙に包んで、ビニール袋に入れ、捨てた。

 妻は「これから毎回だよ」とか「おばあちゃんに処理させてもだめかなあ」とか、悲観的なことを言う。

 いずれにせよ、新しい段階に入ったようだ。

第53回 認知症介護 ドンドン音をたてる

 母は今回2018年の介護認定の更新で要介護4になりました。

 グループホームでお世話いただいていますが、足を二度骨折したこともあり、車いすでの生活になっています。

 私のことを息子だと認識することもできなくなっています。

 2015年8月にグループホームに入りましたが、自宅での介護がこれ以上は難しいと判断した大きな理由は二つありました。

 一つは音の問題です。

 声を出すだけではなく、ドンドンと音を立てる。

 手鏡で蓋つきのゴミ箱をたたいてカンカンと音を立てる。

 夜中にも音を立てることが増え、家族の睡眠に影響するようになってきたことです。

 もう一つは火事の心配です。

 自動消火機能の付いたコンロに替えたり、火災報知機を設置したりしてきましたが、湯たんぽにお湯を入れるために何度もガスコンロでお湯を沸かすことになり、火事の心配が高まってきたことです。

 ティファール(電気の湯沸かし器)でお湯を沸かすことも考えました。

 電気ですので火事の心配は少なく、早くお湯が沸く。

 しかし、使い慣れていない新しいものを使うのは難しいのです。

 かかりつけのO医師に勧められて電気毛布や電気あんかも買ってみましたが、どれもあまりうまくいきませんでした。

 そのあたりは2015年1月のメモにあります。

 ここでは、その1か月ほど前、2014年12月のメモです。

2014年12月○日

・この1週間、不機嫌になることが多い。

 さっきはトイレで「何がオイオイだ。お父さん……だからねーだ。」と独り言を言っていた。

 冷蔵庫をバタンと閉めるのか、扉をぴしゃりと閉める音以外にも、ドンドンと音を立てることも増えた。

 足を引きずる音だけではない。

 食欲は旺盛。

 今も寝室でしゃっくりをしている。

 今「あー」といううめき声も聞こえた。

 湯たんぽのお湯を何度も入れ替えているようでもある。

 見に行ったらまださっき替えたばかりのようで十分熱いお湯だったということも二度三度。

 食後に「早くご飯にしてくれ」とはまだ言ったことはないが、もうすぐそうなるかもしれない。

 ガスを消したり、ストーブの電源を切ったりするのはいいのだが、湯たんぽのお湯を沸かす時に、火が寝巻の袖に燃え移るのが怖い。