NHKスペシャル「シリーズ 人生100年時代を生きる」の第2回が、11月18日の日曜日に放送され、私も見ました。
「命の終わりと向き合うとき」というタイトルで「終末期医療」がテーマでした。
「終末期医療」について、私は父の晩年からずっと考え続けています。
13年程になります。
認知症の母を介護することになってからは、ますます「終末期医療」について考えるようになり、その方面の本も何冊も読んできました。
中村仁一『大往生したけりゃ医療とかかわるな』(幻冬舎新書)、石飛幸三『「平穏死」という選択』(幻冬舎ルネッサンス新書)、川嶋朗『医師が教える幸福な死に方』(角川SSC新書)、久坂部羊『日本人の死に時』(幻冬舎新書)などです。
番組では、最先端の医療設備が整う救命救急センターに、80歳以上の高齢者が次々と運び込まれてくる現状を紹介していました。
社会保障費の抑制を図るため、高齢者の最期を支える場所を「病院」から「自宅」へと国が方針転換したものの、予期していなかったことが起こっているのです。
介護している高齢者の呼吸が遅くなるなどした際、終末期かどうかの判断がつかないため、家族が救急車を呼ぶ、高齢者は病院に運ばれ、そのまま延命医療を長期間受け続ける、という事態が頻発しているというのです。
医療技術の進歩によって、80歳以上の高齢者に対しても人工透析ができるようになったものの、人工透析をしているうちに認知症を発症し、本人が人工透析を希望するかどうかの意思確認ができないまま、透析を続けている例も少なくないようです。
装置を外さないように、手にミトンをはめられ、拘束された状態で人工透析をする高齢者。
その高齢者の孫があんなにまでして治療するのを見るのはつらい、と言ったそうですが、私もそう思います。
意識が戻らないまま横たわる親の姿を見て「こんなはずではなかった」と悔いる家族、本当にこれがすべきことなのかと悩む医師たち。
私が「ああ、そうなのか」と思ったのは、今は人工呼吸器を外すなど、延命医療を中止することもできるようになってきたということです。
人工呼吸器、胃ろう、人工透析など、延命のための治療は、一度始めたらやめることができない、と私は思っていました。
10年ほど前までは、やめられないというのが常識だったようです。
「少なくとも人工呼吸器を途中で外すということはできない」とほとんどの医師も考えていた、とのことでした。
実際に一度付けた人工呼吸器を外す選択をした家族も紹介されていました。
膨らみ続ける医療費を抑制するという目的もあるでしょう。
延命医療が本人や家族のために本当にいいことなのかという議論が高まってきたこともあるでしょう。
延命医療の中止や不開始ができるようになってきたのはいいことだと、私は考えています。
ゲストの阿川佐和子さんも、そのお父さんも、そして多くの人が、自分に延命医療をしないでほしい、と考えているようです。
痛みの緩和は行ってほしいと思うけれど、意識がない状態で、人工呼吸器や胃ろうや人工透析で延命されるのは勘弁してほしい。
多くの人と同じように、私もそう考えています。
自分の命は基本的には自分のもので自分が決定すればいいと思いますが、一方で、自分だけのものではないとも思います。
意識がない状態でも生きていることが家族の励みになることもあるからです。
私は、延命医療をしてほしくないと明確に考えており、エンディングノートも書いています。
毎年一度書き直すような丁寧なことはしていませんが。
そのエンディングノートが私の書斎の本棚にあるのを、私の長女は知っています。
私の妻は知らないかもしれません。
あまり気にしていない様子です。
私が話してもあまり真剣に聞いていないようにも感じます。
妻は自分の父親が半身不随や寝たきりになり、晩年は脳死状態になったということを経験しているので、私のようにきっぱりと延命医療を拒否するとまでは考えられないのだと思っています。
番組にも登場していたような、患者の人生の最期に寄り添ってくれる医師が増えてくれることを望んでいます。
詳しくはNHKのホームページをご覧ください。