第93回 認知症介護 認知症、前を向くために その1

「認知症、前を向くために」という特集記事が、朝日新聞のオピニオン欄にあります。

今日(2018年12月2日)がその第1回で、「家族の葛藤」がテーマです。

「今まで言いたいことを言って私を傷つけてきた人に、なぜ優しく接しないといけないのか」と嫌いな姑の介護に苦痛を感じている女性の声。

「認知症予防、という言葉に『予防できるはずなのに怠っていたから認知症になったんだ』というとんでもない攻撃が隠れています」と指摘する女性の声。

どちらもよく分かります。

特に「予防できるはずなのに怠っていたから認知症になったんだ」という攻撃が隠れているという指摘には、大いに共感します。

身近な人が認知症になり、その介護を自分で経験してみないと、認知症の人に対して優しくなれない、というのも多くの人の現実なのだと感じます。

自分が痛い目に遭わないと分からない、というのも人間の常ですから。

介護することを「痛い目」などと言ってはいけないですが。

認知症の予防に効果がある習慣は、たしかにいろいろとあるのでしょうし、それを実行して認知症予防に励むのはいいことだと思いますが、誰でも認知症になる可能性はあるはずです。

私も「いつかは自分も認知症になるかもしれない」と思って、介護に向き合ってきました。

予防に努めれば認知症にならないというのは誤解だと思います。

「こうすればこうなる」と考えすぎてはいけないと思います。

最近読んだ内田樹さんの『常識的で何か問題でも?』(朝日新書)のあとがきに心に留まった部分があったので、少し長いですが、引用します。

「入力と出力の間にシンプルな相関関係がある仕組みは『ペニー・ガム・システム』とも呼ばれます。ペニー硬貨を投じると必ずガムが出て来る自動販売機の仕組みです。このシステムを現代人は偏愛しております。特に若い人たちにこの傾向が顕著である。そのことを僕はこれまで何度か指摘してきましたけれど、それはあくまで局所的な傾向に過ぎず、日本社会の隅々にまでこれほど広まっているとは思いませんでした。」

「予防すれば認知症は防げる、それを怠ったから認知症になった」に潜む攻撃性の裏に、「ペニー・ガム・システム」偏向の傾向に通じるものを感じます。

朝日新聞の記事には、このブログの「第11回 認知症介護 どんな本を読んだか」でも触れた『母さん、ごめん』(日経BP社)の松浦晋也さんも写真付きで出ています。

食品を台所いっぱいに散らかして「おなかが減って」と訴えるお母さんに手を上げてしまい、その直後は放心状態で涙があふれた、という松浦さんの経験が書かれています。

「介護の矢面にたたない家族は、介護する人をケアする心配りがほしいと思います」と松浦さんは言います。

これにも同感です。

「認知症の人と家族の会」が定期的に開く「つどい」に参加して、同じ立場の人に悩みや愚痴を打ち明けることの意義も、記事には書かれています。

その東京都支部で司会を務めた斉藤響子さんの言葉にも大いに共感しました。

その部分は、「『こうするべきだ』よりも、目の前の母親が笑っていることが大事だと思えるようになりました」という部分です。

私の母は、最近ほとんど笑顔を見せなくなってしまっています。

食べたものがおいしいとか、家族の話題で笑えるとか、散歩が心地よかったとか、そういうことで少しでも笑顔になれることが大事だと以前から思っています。

それもかなわなくなってくるのですけれど。

「母の首をしめようかと思う」と「つどい」に現れた女性に、「ちょっと笑ってくれることがあったら、その日一日は生きていける。爆笑させられたら1週間、生きていける。その積み重ね」と斉藤さんは話します。

「認知症、前を向くために」は、来週12月9日が第2回。

全部で第4回までの予定のようです。

第91回 認知症介護 介護のストレスか、グループホームに預けた負い目か 

 私が寝ている部屋の隣の部屋に母がいます。

 母はパニック状態になっていて、ふすまをブスッ、ブスッと傘か何かで刺してきます。

 母の声はしません。

 「お母さん、お母さん」と私は、母を落ち着かせようと何度も母を呼びました。

 しかし、声が出せません。

 「お母さん、お母さん」と言っているつもりなのに、「おあああん、おあああん」としか言えません。

 私は焦りました。

 母は黙ったままブスッ、ブスッとふすまを刺してくるのをやめません。

 「おあああん、おあああん」。

 私の方がパニック状態です。

 「大丈夫?」という妻の声で、私は目が覚めました。

 夢を見ていたのです。

 母の姿も見えないし、母の声も聞こえないのに、母がパニック状態と分かっていたのは、夢だったからなのでした。

 「うなされているようだったよ。お母さん、お母さんって言っていたよ。」と妻は言いました。

 認知症の母をグループホームに預けることになってから、8カ月ほどが経過した2016年4月のことでした。

 「家族がつぶれてはいけない、明るい介護を目指そう」と心がけてはいましたが、私には、なかなかあっけらかんとした介護はできませんでした。

 母の一挙手一投足、一言一言に心が揺れました。

 自宅での介護もそろそろ限界だと感じて、母をグループホームに預かってもらうことにして、介護の大変さは軽減されたものの、「本当によかったのだろうか」という思いは、なかなか消えませんでした。

 「介護を苦労と思ってはいけない」などと、どうしても力が入ってしまい、自然体ではいられないのです。

 介護している人の多くはそうだと思いますが。

 2016年4月のメモです。

2016年4月○日

・夢を見た。

 寝言を言っていたようだ。

 私の妻は「うなされているようだった」と言っていた。

 時計を見たら朝の2時だった。

 母が隣の部屋にいて、私は寝ている。

 母が何かパニックになったようにわめきだして、傘のようなもので部屋を仕切っているふすまをブスッ、ブスッと刺し始めた。

 それで寝ていた私は、母を少しでも落ち着かせようと「お母さん、お母さん」と声を出していたのだ。

 「お母さん」という言葉がうまく言えなくて焦りながら。

 夢の中では「お母さん」と3回言っていた。

 母を介護してきたストレスや、母をグループホームに預けている悲しみが、このような形で現れたのかもしれない。

 今もだいたい週に一度くらいのペースで面会には行っているが。

第90回 認知症介護 NHKスペシャル「シリーズ 人生100年時代を生きる」その3

  NHKスペシャル「シリーズ 人生100年時代を生きる」の第2回が、11月18日の日曜日に放送され、私も見ました。

 「命の終わりと向き合うとき」というタイトルで「終末期医療」がテーマでした。

 「終末期医療」について、私は父の晩年からずっと考え続けています。

 13年程になります。

 認知症の母を介護することになってからは、ますます「終末期医療」について考えるようになり、その方面の本も何冊も読んできました。

 中村仁一『大往生したけりゃ医療とかかわるな』(幻冬舎新書)、石飛幸三『「平穏死」という選択』(幻冬舎ルネッサンス新書)、川嶋朗『医師が教える幸福な死に方』(角川SSC新書)、久坂部羊『日本人の死に時』(幻冬舎新書)などです。

 番組では、最先端の医療設備が整う救命救急センターに、80歳以上の高齢者が次々と運び込まれてくる現状を紹介していました。

 社会保障費の抑制を図るため、高齢者の最期を支える場所を「病院」から「自宅」へと国が方針転換したものの、予期していなかったことが起こっているのです。

 介護している高齢者の呼吸が遅くなるなどした際、終末期かどうかの判断がつかないため、家族が救急車を呼ぶ、高齢者は病院に運ばれ、そのまま延命医療を長期間受け続ける、という事態が頻発しているというのです。

 医療技術の進歩によって、80歳以上の高齢者に対しても人工透析ができるようになったものの、人工透析をしているうちに認知症を発症し、本人が人工透析を希望するかどうかの意思確認ができないまま、透析を続けている例も少なくないようです。

 装置を外さないように、手にミトンをはめられ、拘束された状態で人工透析をする高齢者。

 その高齢者の孫があんなにまでして治療するのを見るのはつらい、と言ったそうですが、私もそう思います。

 意識が戻らないまま横たわる親の姿を見て「こんなはずではなかった」と悔いる家族、本当にこれがすべきことなのかと悩む医師たち。

 私が「ああ、そうなのか」と思ったのは、今は人工呼吸器を外すなど、延命医療を中止することもできるようになってきたということです。

 人工呼吸器、胃ろう、人工透析など、延命のための治療は、一度始めたらやめることができない、と私は思っていました。

 10年ほど前までは、やめられないというのが常識だったようです。

 「少なくとも人工呼吸器を途中で外すということはできない」とほとんどの医師も考えていた、とのことでした。

 実際に一度付けた人工呼吸器を外す選択をした家族も紹介されていました。

 膨らみ続ける医療費を抑制するという目的もあるでしょう。

 延命医療が本人や家族のために本当にいいことなのかという議論が高まってきたこともあるでしょう。

 延命医療の中止や不開始ができるようになってきたのはいいことだと、私は考えています。

 ゲストの阿川佐和子さんも、そのお父さんも、そして多くの人が、自分に延命医療をしないでほしい、と考えているようです。

 痛みの緩和は行ってほしいと思うけれど、意識がない状態で、人工呼吸器や胃ろうや人工透析で延命されるのは勘弁してほしい。

 多くの人と同じように、私もそう考えています。

 自分の命は基本的には自分のもので自分が決定すればいいと思いますが、一方で、自分だけのものではないとも思います。

 意識がない状態でも生きていることが家族の励みになることもあるからです。

 私は、延命医療をしてほしくないと明確に考えており、エンディングノートも書いています。

 毎年一度書き直すような丁寧なことはしていませんが。

 そのエンディングノートが私の書斎の本棚にあるのを、私の長女は知っています。

 私の妻は知らないかもしれません。

 あまり気にしていない様子です。

 私が話してもあまり真剣に聞いていないようにも感じます。

 妻は自分の父親が半身不随や寝たきりになり、晩年は脳死状態になったということを経験しているので、私のようにきっぱりと延命医療を拒否するとまでは考えられないのだと思っています。

 番組にも登場していたような、患者の人生の最期に寄り添ってくれる医師が増えてくれることを望んでいます。

 詳しくはNHKのホームページをご覧ください。

 NHKスペシャル第2回「命の終わりと向き合うとき」